預言者ムハンマド伝(9/12):同盟部族の反逆

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説明: ウフドにおける誤りは多くの殉教者を出し、その後の新戦略によってムスリムたちは勝利を手にしました。

  • より IslamReligion.com
  • 掲載日時 06 Dec 2009
  • 編集日時 21 Oct 2010
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ウフド山の戦い

翌年には、実に3,000人を擁した軍隊がヤスリブ(マディーナ)の破壊を目的としてマッカから進軍して来ました。預言者は当初、“偽信者たちの長”であるイブン・ウバイの案、つまり町に留まり防御に徹することに賛成でしたが、バドルで戦った戦士たちはいかなる逆境であってもアッラーによるご助力があると信じ、壁の後ろで待ち続けることは恥辱であると主張しました。

預言者は彼らの信仰心と熱意を評価し、彼らの意見を承認すると、1,000人の軍隊を率いて敵軍の野営しているウフド山へと出陣しました。イブン・ウバイは報復として、軍の3分の1にも達していた多数の彼の部下と共に撤退しました。このような重大な逆境にも関わらず、ウフド山の戦いはムスリムにとっての更なる大きな勝利に傾いていました。しかし、預言者が敵軍騎馬隊への攻撃のために配置させていた50名の弓隊による不従順によって風向きが一変します。彼らは自軍の戦士たちが一旦勝利を収めたのを見ると、戦闘が終了したと早合点し、戦利品を失うことを恐れて持ち場を去ったのです。クライシュ族の騎馬隊は谷間を乗り越え勝利に喜んでいたムスリムたちを一気に攻め込みました。この形勢逆転により預言者自身も負傷し、彼が殺害されたという誤解が広まる程でしたが、ある者が彼の生存を確認すると、ムスリムたちは預言者の周りに集まり、、山麓に多数の遺体を残して退却を始めました。戦場はマッカ軍のものとなり、クライシュ族の女性たちが自軍の戦死者たちを嘆き悲しむとともに、ムスリムの殉教者たちの遺体を損傷して回りました。殉教者の一人であった預言者の若き叔父ハムザは、彼に特別な怨みを抱いていたアブー・スフヤーンの妻ヒンドによってその殺害に懸賞金を出されていました。彼女は彼のまだ温かい遺体を見つけると、そこから肝臓を裂き出してそれに噛み付くという忌まわしい行いをしました。翌日、預言者は再び残りの軍隊と出撃しました。彼はもしクライシュ族が預言者の生存を知れば、町への攻撃が阻止出来ると予測していました。その作戦は、ムスリムたちと友好関係にあった一人のベドウィンが、彼らと言葉を交わした後にクライシュ族の軍隊に会うことにより見事に成功したのです。彼はアブー・スフヤーンの質問を受けると、ムハンマドがまだ戦場にいること、更に彼は前日の出来事への雪辱に燃えており、これまでにも増して力強くなっていたということを伝えました。こうしてアブー・スフヤーンは、マッカへの退却を決定したのです。

ムスリムの虐殺

ウフド山での形勢の逆転によって、アラブ諸部族、またヤスリブのユダヤ教徒たちにとってムスリムの威信は下がっていました。ムスリム側に傾斜していた諸部族は、今度はクライシュ族側へと傾き始めました。預言者の追従者たちは少数での旅路において襲撃を受け殺害され、預言者の使節団の一人であったフバイブらは砂漠の部族に捕らえられ、クライシュ族に売られた挙げ句、マッカでの公開拷問によって命を落としました。

ナディール族の排除

ユダヤ教徒たちは、当初ムスリムたちと締結していた条約にも関わらず、これまで隠していた敵意をあらわにし始めました。彼らはクライシュ族、そして‘偽信者たち’との同盟を交渉し始め、更には預言者の命さえ狙ったのです。預言者は彼らの一部に対して処罰措置をとらざるを得ませんでした。ユダヤ教徒の一部族、ナディール族は包囲、抑制されて移住を強いられました。

塹壕の戦い

アブー・スフヤーンには、このままではいけないという焦りがあったのでしょう。ムスリムたちを徹底的に滅ぼさない限り、彼の勝利はなかったのです。彼は巧みな外交手段により、一部のムスリムに対抗していた諸部族、そして単に略奪を望んでいたベドウィン諸部族との同盟を結び、同時にマディーナにいたユダヤ諸部族とも密かに同盟の可能性を探り始めました。そしてヒジュラ暦5年(西暦627年)、彼は10,000人という、ヒジャーズ地方(アラビア半島の西部)における前代未聞の軍勢と共に出陣しました。一方マディーナでは対抗勢力として3,000人を動員することで精一杯でした。

預言者は作戦協議を開きましたが、そのとき敵軍と真っ向から対峙することを示唆する者は一人もいませんでした。唯一の問題は、いかにして町を守るかということでした。この時、ペルシャ人の元奴隷であり、その後最も著名な教友の一人となったサルマーンは、前線に深い塹壕を掘ることを提言しました。これはアラビアの戦争において前例のないものでしたが、預言者はその案を真っ先に評価し、直ちに実行へと移しました。そして彼自身もその作業に加わり、背中に瓦礫を抱えて運び出しました。

部族連合が地平線に姿を見せた頃、作業は辛うじて終っていました。ムスリム軍が戦闘のために出陣すると、それまでマディーナで同盟を結んでいたユダヤ人部族のクライザ族が敵軍へ離反したという知らせが入って来ました。状況は絶望的に見えました。預言者は全ての兵力を塹壕に結集させており、町は盲目であった教友の指揮下にあったのです。前線で敵軍が予期しなかった障害に到達すると、彼らには矢が雨のように降り注ぎました。彼らは塹壕を越えることが出来ず、3、4週間に渡りその場に留まり、矢の応戦と舌戦が繰り広げられたのです。やがて天候は凍てつくような風と凄まじいどしゃ降りによって堪え難いものとなり、これによって楽な略奪を期待していたベドウィンの連合諸部族は塹壕の側で泥まみれになり、餌の不足で家畜が死んで行くのを見ながら、悪天候の中で得るものは何もないと悟り、アブー・スフヤーンに決別を告げたのです。軍隊は崩壊し、彼自身も撤退を余儀なくされました。戦いは終わりました。彼は敗北したのです。

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