マーガレット・マルカス 米国出身の元ユダヤ教徒(4/5)
説明: マーガレットは、クルアーンが彼女の人生に与えた影響について、そしてユダヤ人とアラブ人の関係について自身の見解を述べます。
- より マーガレット・マルカス
- 掲載日時 28 Apr 2014
- 編集日時 28 Apr 2014
- プリント数: 137
- 観覧数: 13,687 (日平均: 4)
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
新約聖書では来世が言及されているのを見つけましたが、聖クルアーンにおけるものと比較すると、それは曖昧で漠然としたものです。死の問題については、タルムードで「最悪な人生の方が死よりもましである」と説かれているように、正統派ユダヤ教からは答えを見出すことが出来ませんでした。私の両親は、死について考えることを避け、可能な限り人生の今を楽しむべきだという刹那主義の持ち主です。彼らによると人生の目的とは自己実現、家族愛、気心の知れた友人たちとの付き合いに加え、快適な暮らしとアメリカが豊富に提供する様々な娯楽を楽しむことによって達成されるということでした。彼らは意図的にこうした人生への表面的なアプローチを、それがあたかも持続する幸福と幸運の鍵であるかのように教化したのです。私は自身の苦い経験から、放蕩な人生は惨めさに直結し、逆境における努力と自己犠牲なくしては何一つとして偉大さ、または価値あることが達成されないことを学びました。私は幼少の頃から、重要で有意義なことを達成したいと願ってきました。私は死ぬ前に、自分の人生を罪深い行いや無価値な追求によって無駄にはしなかったという確証が何よりも欲しかったのです。私はこれまで非常に真剣に生きてきました。私は現代文化において優勢的な特質である、軽薄さというものを常に嫌悪してきました。私の父は、彼自身の気まぐれな確信を私に押し付け、「現代におけるすべてのものはその時々の情勢を不可避のものとして受け入れてそれに適応しているため、不変的な価値などは存在しないものだ」と言って私をいらつかせました。しかし私は、永続的な何かを見つけ出したいと願い続けてきました。私は聖クルアーンから、こうした切望が実現することを学びました。神のご満悦を求めつつ行う善行は、決して無駄にもならず、失われもしないということです。それを行う者が現世的な認知をされるに至らずとも、その報奨は来世において確実なのです。反対に、私利私欲や社会的な認知以外の倫理に従わず、自由奔放な生き方を追求する者たちは、たとえ現世的な成功を収め、束の間の繁栄を享受していたとしても、審判の日には損失者として破滅を迎えるのだとクルアーンは私たちに告げるのです。イスラームは、私たちが神、そして同胞への義務を果たすことを望むのであれば、そのためにはあらゆる空虚かつ無益な活動を放棄しなければならないと説きます。ハディースによってさらに明瞭となる聖クルアーンによるこれらの教えは、私の気質にぴったりと合うものでした。
Q:あなたがムスリムになった後、アラブ人への意見はどのようになりましたか?
A:時の経過と共に、アラブ人がイスラームを偉大なものとしたのではなく、イスラームがアラブ人を偉大なものとしたということを徐々に実感するようになりました。聖預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)なくしては、アラブ人は今では名もなき民族だったことでしょう。そして同様に、聖クルアーンなくしては、アラビア語は消滅したか、取るに足らない言語だったことでしょう。
Q:ユダヤ教とイスラームの類似性について教えてください。
A:ユダヤ教とイスラームのつながりは、イスラームとキリスト教のそれよりも強いものです。ユダヤ教とイスラームはどちらも妥協なき一神教を貫き、創造主への服従と愛情の根拠として神の律法に厳格に従う重要性を説き、聖職者の存在を否定し、禁欲生活を勧め、ヘブライ語とアラビア語にも著しい類似性があります。
ユダヤ教において、宗教は民族主義と混同されており、多くの人々は2つの違いを識別することが出来ません。「ユダヤ教」は、ユダ族に由来する名称です。ユダヤ人は、ユダ族の一員なのです。この宗教の名称は、普遍的な精神的教えとは無関係なものです。ユダヤ人は神の唯一性を信じることによってユダヤ人となるのではなく、ユダヤ人の血筋によってそうなるだけなのです。もし、あるユダヤ人が歯に衣着せぬ無神論者になったとしても、ユダヤ人同胞の間ではユダヤ人であり続けるのです。
この宗教は民族主義によって完全に蝕まれ、あらゆる面において精神的な豊かさを失ってしまいました。彼らの神は、人類全体の神ではなく、イスラエルの神なのです。彼らの啓典は全人類に向けた啓示ではなく、主にユダヤ人の歴史書なのです。ダビデとソロモン(彼らに神の慈悲と祝福あれ)は神の預言者ではなく、ユダヤ人の王に過ぎません。ヨム・キプルを例外として、ハヌカー、プーリーム、ペサハなどの祝祭日は宗教的なものというよりも、国家的側面の方がはるかに強いのです。
コメントを付ける