マーガレット・マルカス 米国出身の元ユダヤ教徒(1/5)
説明: マーガレットは、幼少期に通った日曜学校について、また全ての宗教団体を 蔑視するようになった経緯について、そして大学で取ったユダヤ教とイスラームのクラスについて語ります。
- より マーガレット・マルカス
- 掲載日時 21 Apr 2014
- 編集日時 21 Apr 2014
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Q:どのようにしてイスラームに興味を持ち始めたのか教えてください。
A: 私はマーガレット(ペギー)マルカスとして生まれました。幼少期から、私は音楽への強い関心を持ち、西側社会において洗練された文化と見なされるクラシック・オペラや交響曲が特に好きでした。学校では音楽のクラスが好きで、常に最も良い成績を収めていました。全くの偶然からラジオで耳にしたアラビア音楽をひどく気に入り、もっと聞きたいと思うようになりました。私は両親にせがんでニューヨークのシリア人街に連れていってもらい、アラビア音楽のレコードをまとめ買いしました。私の両親、親戚、隣人たちは皆、アラビア語とその音楽は酷く奇妙で耳障りであると感じ、私がレコードをかけると、彼らはそれが迷惑だと言い、私の部屋のドアと窓を閉め切るよう要求しました。私は1961年にイスラームに改宗した後、有名なエジプト人の朗誦家アブドル=バースィト師のティラーワ(クルアーン朗誦)を聞くためにニューヨークのモスクに行き、そこで魅了されたまま何時間でも座り続けることが出来ました。サラートル=ジュムア(金曜合同礼拝)では、イマームはテープを再生しませんでした。その日、特別ゲストが来たのです。ザンジバル出身の学生であると自己紹介した彼は、背が低く非常に痩せ、粗末な衣服を来た黒人の少年で、スーラトッ=ラフマーン(クルアーンの一章)を朗誦しました。私はあれ程までに見事なティラーワを、アブドル=バースィト師からでさえ聞いたことがありませんでした。彼は黄金の声を持っていました。預言者の教友で、一日5回の礼拝の呼びかけを任せられていたビラール(彼に神のご満悦あれ)は、おそらく彼のような声だったことでしょう。
私のイスラームへの関心は、10歳にまでさかのぼります。ユダヤ教改革派の日曜学校に通っていた私は、ユダヤ人とアラブ人の歴史的関係に興味を抱きました。ユダヤ教の教科書で、アブラハムはアラブ人とユダヤ人双方の父祖であることを知りました。また、その数世紀後の中世ヨーロッパにおいて、キリスト教徒による迫害に耐えられなくなった彼らはムスリム領スペインで歓迎されましたが、このアラブ・イスラーム文明の寛大さにより、ヘブライ文化の功績がピークに達するきっかけとなったのです。
シオニズムの真の性質に無頓着だった私は、ユダヤ人がパレスチナに帰還すれば、一神教の「従兄弟」との地域の密接な結び付きを強化するものだと思い込んでいました。ユダヤ人とアラブ人は結束し、中東における文化の新たな黄金時代を築き上げるのだと信じていました。
ユダヤ教の歴史への関心とはよそに、私は日曜学校を非常に嫌悪していました。当時の私は、自身をナチスによる迫害を受けたヨーロッパのユダヤ教徒と同一視しており、クラスメートたちやその両親たちが誰一人として宗教を真剣に受け止めていなかったことに衝撃を受けていました。シナゴーグでの集会で、子供たちは祈祷書に漫画本を忍び込ませたり、儀式を笑い飛ばしたりしていました。乱暴で騒がしい子供たちは教師たちの手に負えず、クラスの進行も非常に困難なものでした。
家庭内においても、宗教の実践はほとんど成立していませんでした。私の姉は日曜学校を嫌うあまり、母は文字通り彼女をベッドから引きずり出さねばならず、涙と激しい言葉の応酬抜きには家を出ることはありませんでした。最終的に、両親は音を上げて彼女が辞めることを許さざるを得ませんでした。ユダヤ教の祭日では、シナゴーグに行ったりヨム・キプールの断食をする代わり、私たちは学校を休んで家族ピクニックに行ったり、高級レストランのパーティーに参加したりするようになりました。というのも私と姉が、日曜学校がいかに酷く、私たちが悲惨な思いをしているかを両親に説得すると、両親はEthical Culture Movement(倫理的文化ムーヴメント)という不可知論者の人道団体に加わったのです。
Ethical Culture Movementはフェリックス・アルダーが19世紀末に創設した団体です。ユダヤ教の神学を学んでいたフェリックス・アルダーは、倫理的な価値観への献身こそが人為的かつ意義ある、現代世界に相応しいものであることを確信し、霊性や神学は無意味であると主張しました。私がEthical Cultureの日曜学校に11歳のときから通い始め、15歳で卒業する頃には、彼らの理念に完全に同調し、すべての伝統的・組織的宗教を蔑視するようになっていました。
私は18歳のとき、「ミツラチ・ハッツェール」と呼ばれる地元の青年シオニズム運動のメンバーになりました。しかし、ユダヤ人とアラブ人の間の敵意を煽るシオニズムの性質について知った私は、それに嫌気をさし、数ヵ月後に脱会しました。ニューヨーク大学の生徒だった20歳の頃は、選択科目の一つに「ユダヤ教におけるイスラーム」というクラスがありました。教授のラビ・アブラハム・イサク・カッチは、イスラームはユダヤ教から分派したものであるというユダヤ教の観点を生徒に説得しようとも試みませんでした。生徒たちは皆ユダヤ教徒で、彼らの多くはラビになることを目標としていました。そこで用いられた教科書は彼自身の著書で、クルアーンの節々を入念に辿り、それらがユダヤ教に依拠するものであるという説を展開しました。彼の真の目的は、ユダヤ教の優越性を生徒たちに証明することでしたが、それは私にとっては全くの逆効果でした。
私はシオニズムが、ユダヤ教における人種差別主義・部族主義的な側面の組み合わせに過ぎないものであることに気が付きました。シオニズムの指導者たちに実践的なユダヤ教徒が全くと言っていい程いないことを知った私の目に、近代の世俗・国家主義的シオニズムの信用はさらに失墜しました。イスラエルにおいてほど、正統派・伝統派ユダヤ教が強烈な蔑みの対象となっている場所は他にないのです。ほぼすべてのユダヤ教指導者たちがシオニズムの支持者であり、パレスチナのアラブ人たちに対する酷い不正に対して良心の呵責を少しも感じていないことを知った私は、心中では自分のことをユダヤ教徒であると見なすことが出来なくなっていました。
1954年のある朝、カッツ教授は授業中に、モーゼ(神の慈悲と祝福あれ)によって説かれた一神教と、彼に啓示された神の律法は、すべての高度な倫理的価値観における基盤として欠かせないものであることを、反駁不可能なロジックによって提示しました。Ethical Cultureや不可知論者、無神論者たちが主張するように、もしも倫理が真に人為的なものであるのなら、それは思いつき、便宜、状況に基づいて思い通りに変えてしまうことが出来るはずです。その結果、社会は混乱に陥り、破滅してしまうでしょう。ラビの教えるタルムードにおける来世への信仰は、単なる願望的思考ではなく、倫理的な必然性であるとカッツ教授は論じました。彼は、私たちのすべてが審判の日、現世での行いを清算されるため、そしてそれに応じて報奨または懲罰を受けるために神によって召集されるということを確信する者たちだけが、儚い欲望を犠牲にし、不滅の善を手に入れるため困難を耐え得る自己修養を有しているのだと述べました。
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