アリー・サルマーン・ベノワ博士 フランス出身、元カトリック教徒
説明: 医学博士がキリスト教ではなく、イスラームを選んだ理由とは。
- より アリー・サルマーン・ベノワ
- 掲載日時 07 Jan 2013
- 編集日時 07 Jan 2013
- プリント数: 48
- 観覧数: 7,756 (日平均: 2)
- 評価者: 0
- メール数: 0
- コメント日時: 0
私は医学博士として、そしてフランス人のカトリック教徒の出身として、科学的バックグラウンドと共に育ち、神秘的人生というものとは程遠い生活を送ってきました。私は神を信じなかったわけではありませんが、一般的なキリスト教の教義や儀式、特にカトリック信仰のそれは、私に神の存在を感じさせてはくれませんでした。それゆえ、私の神に対する感情は一貫して、三位一体の教義、そしてイエス・キリストの神格性を受け入れませんでした。
私はイスラームを知る前から、「ラー・イラーハ・イッラッラー(唯一神なるアッラー以外に神はなし)」というカリマ(信仰証言)の前半、そしてクルアーンの以下の節を信じていました。
“言え、「かれはアッラー、唯一なる御方であられる。アッラーは、自存され、御産みなさらないし、御産れになられたのではない、かれに比べ得る、何ものもない。」”(クルアーン112:1−4)
このように、まず私は形而上的側面からイスラームを信奉していました。その他の理由もそうです。たとえば、神の代わりに人の罪を赦すことが出来ると主張するカトリック司祭を認めたくはない、という私の拒否反応です。さらに、私はカトリックの儀式である聖体拝領を決して受け入れることは出来ませんでした。それはイエス・キリストの身体の実体であると信じられる聖体(パン)を食べるもので、私にとってはそれが未開な人々によって実践されるトーテム信仰に見えました。それはタブーとされる先祖伝来のトーテムの身体を、その死後に食すことにより、その性格と同化するというものです。私をキリスト教から遠ざけたもう一つのポイントを挙げるとすれば、とりわけ礼拝前の身体の浄化に対しての完全なる沈黙でした。私にとってそれは、神への侮辱のように思えたのです。なぜなら、もし神が私たちに魂だけでなく、体をもお授けになったのであれば、それを汚いまま放置する権利は私たちにはないはずだからです。彼らに人間の生理学的な問題について言及すれば、沈黙だけでなく敵意を含んだ反応をされる一方、イスラームはこの点について、人間性と調和した唯一の宗教であると感じられました。
私がイスラームに改宗するに至った根本的かつ決定的な要素は、クルアーンの存在でしょう。私は改宗前、西洋特有の批判精神をもってそれを学びましたが、それが出来たのは、「Le Phenomene Coranique(クルアーン的事象)」と題された、マーリク・ブン・ナビー氏の著作のおかげです。私はそれによって、クルアーンが神による啓示であると確信することが出来ました。13世紀以上も前に啓示されたクルアーンの中のいくつかの節々には、近代科学の研究者たちが発見するものと全く同じ概念が示されているのです。このことは確かに私を納得させ、カリマの後半である「ムハンマド・ラスールッラー(ムハンマドはアッラーの使徒である」を信じることが出来ました。
以上が、私が1953年の2月20日に、パリのモスクでイスラームの信仰宣言を行い、パリ・モスクのムフティーによってムスリムとして登録され、「アリー・サルマーン」いうムスリム名を与えられた所以です。
私は自分の新たな信仰にとても満足しています。そしてもう一度宣言しましょう。
「私は唯一なる神アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーのしもべであり、使徒であることを宣言します。」
コメントを付ける